ヨコハマヘ1 of 武松事業デザイン工房


わが国の貿易額、その85%を独占した時代 そして、イメージがリアルを凌駕する街

「我が日の本は島国よ。朝日輝やう海に…」
ご承知のように、横浜市歌は港都ヨコハマの繁栄を唄った歌です。
江戸幕府は、当初、鎖国政策に準じて開港地を限定しました。維新後も首都「東京」に最も近い国際港であったために、一時は,わが国の貿易額の実に85%を独占した時代もあったようです。

そこに集まった人と金…

横浜市歌に詠われているように「昔思えば、苫屋の煙 ちらりほらり…」の場所だった開港地には既存の勢力も、利権の構造もなく、ここにやってきた人たちは何のしがらみにとらわれることもなく、存分に腕をふるえたのでしょう。それは「49ers」が活躍した当時のサンフランシスコの状況に似ています。
そして49ersがリーバイスのジーンズを産み出したように、貿易で活気づく人々の周辺には、たくさんのビジネス・チャンスが産み出されました。
そして、そのビジネス・チャンスが、耕作地を分けてもらえなかった農家の次男坊、三男坊、多くの新興商人に成功をもたらし、また、その噂が人を集め、その消費力が、次のビジネス・チャンスを産み出していく…まさに夢のような出来事が、一時でも、このヨコハマに現実のものとなった。

一国の貿易額の85%がひとつの港に集中する…
これは280年間鎖国を続けてきたわが国の特殊な事情が産み出したことで、本来は「あり得ない」ことです。

しかし、この「あり得ない」ことが起ってしまった。
ご承知のように、海に面している区は、鶴見区、神奈川区、西区、中区、磯子区、金沢区の6区。現在、横浜には18の行政区がありますから、3分の2は海にも面していない。文化的にも「港都」とは異なった特色を持つ地域の方が面積は広い。こうした横浜市を未だに「港都」の夢の中で語る…
このことこそが「貿易額の85%」が人々にもたらしたインパクトの、その大きさを物語っているように思います。

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増殖するイメージ

リアルの喪失

制御できたか

横浜空洞説

創作されたヨコハマのイメージ

横浜は、いくつもの娯楽映画、テレビのロケ地になってきました。戦後の映画全盛期、特に日活アクション映画以降、まだ外国が遠い憧れだった時代に「その外国を近くに感じられる場所」であったこと。そして、そのことがハイソサエティな上流の暮らしを描くのにも、無頼な不良を描くのにも便利であったこと。そうしたことと、東京に集中していた撮影所から至近な距離にあったことなどが、あいまって、横浜は「ロケ地の常連」になっていったのだと思います。
しかも、そのことは映画の全盛期が終わり、テレビの時代になっても続きました。テレビ・ドラマの製作スタッフは,映画のそれとリンクしていますし、ドラマを制作するテレビのキー局も、映画会社と同様、東京に集中していましたから、当然と言えば当然のことです。

物流拠点としての港が完全に死んでしまうということはありえないだろうと思います。同様に、かつて隆盛にあった繊維産業などの、その全てが、横浜から完全に姿を消してしまうということもないのだとは思います。
ただ、明治から高度成長期までの横浜を支えてきたすべての産業が縮小していくというのは否めない事実なのでしょう。横浜一の繁華街であった伊勢佐木町も、その「繁華街」としての役割は終えようとしていますが、今も、別の意味で活気ある商店街としての命脈を保ち続けています。
いずれにせよ、ただ、これまでを続けようとするのではなく、時代に沿って、消費者のニーズに沿って、変化し続けることなのだと思います。